世界の国から、輝く太陽がやってくる。

WORLD GAMES 2001AKITA

第6回 ワールドゲームズ(The 6th World Games)

ワールドゲームズとは?

 国際ワールドゲームズ協会(IWGA)が主催する国際総合スポーツ大会で、国際オリンピック委員会(IOC)の支援を受け、4年に一度夏季オリンピックの翌年に開催されています。
 ワールドゲームズもオリンピックと同じように世界最高水準の選手による国際競技会ですが、参加選手は、国ではなく各競技の国際連盟が(IF)が選んだ代表であるということ、そして、大会には既存の施設を使うという二つの大きな特徴があります。
 大会ではオリンピックの競技種目以外のスポーツから選ばれた、公式競技と公開競技が実施されます。また、各競技の普及や世界から訪れる選手・役員と地元の人々との交流を目的とした、一般参加のプログラムなども併せて開催されます。
 第6回 ワールドゲームズ(秋田ワールドゲームズ2001)は2001年8月16日〜26日の11日間、秋田県内8市町村の21会場で行われました。 
 公式26、公開5競技に選手役員あわせて3000人以上が参加し、それぞれの世界一を競いあいました。
 この秋田大会は、アジアで初めての開催であり、20年目を迎えるワールドゲームズ史上初の広域での開催となります。

私の認知度は・・・?

 私も参加するまでは、実のところワールドゲームズ(以下:WG)を知りませんでした。
 聞くところによると、ヨーロッパの方では、オリンピックと同じように盛り上がるそうです。
 オリンピック種目になる可能性を持った競技が行われており、トライアスロンもトランポリンもソフトボールも以前は、WGの公式競技だったようです。
 一言でいうなら”世界連盟を持つ競技スポーツの祭典”でしょうか。
 開催種目の中には、オリエンテーリング・綱引き・ボディビルディング・パラシューティングなど、本当に多種多様な競技スポーツが行われていました。
国際総合スポーツ競技会ならでは盛り上がり。秋田の地はWG一色でした。

実際、競技会に参加してみて・・・。

 私にとっても初の国際総合スポーツ大会への参加です。
 緊張とともに大きな期待に包まれていました。
 日本チーム団は成田兄弟・姉妹(現在スノーボードで活躍中)の旗手で開会式を終え、
各競技に臨みました。
 ライフセービングはフィンスイミングとの同時開催でした。
 種目は違えど日本代表(日本はホスト国なので全競技に参加)として戦う意志は同じ、競技の枠をこえ応援にも力が入りました。
 連日、秋田魁新報・さきがけスポーツ(ローカル祇)で報じられる日本人の活躍に一喜一憂し自分も紙面を飾りたいな、と思っていました。
 ライフセービング競技はプール競技とオーシャン(海)競技に分かれて行われました。
 プール競技では今一歩及ばなかったものの、オーシャン競技では日本チームのメダルラッシュです。
ビーチフラッグス遊佐 雅美選手の優勝をはじめ藤原 梢選手3位・但野 秀信選手3位。
 
そして、なんと拓殖大学・御宿海岸出身の林 昌広・雨海 健吾(拓大後輩)が、
レスキューボードレスキューレース(チーム競技)3位
に入賞しました。
 感動の模様は写真に通りです。速報の中で山口監督も”最も価値のある結果”と評価していただきました。

秋田WG日本代表チーム監督:山口 毅氏(速報より一部抜粋) 
 「代表チームとして最も価値ある結果のひとつに、
             雨海・林選手のレスキューボードレスキューレース3位入賞がある。
 国際大会3位入賞は初めてであり、
  フラットコンディションから後半の追い上げは新しい力を感じるものであった。」
 監督をもうならせた私達の頑張りは、翌日の紙面を飾りました。一面とまではいきませんでしたが、確かな強さの証明が出来たと思います。
閉会セレモニーは、オリンピックそのものでした。選手、競技役員が国ごとに自由に入場し、お互いの健闘を讃えあいました。オランダチームは民族衣装で登場したり、プールにいたボランティアの人がいたりと、関係者全員が参加する盛大な閉会セレモニーでした。 
テレビカメラも一緒になって、もみくちゃにされながら撮影を行っていました。翌日、NHKで閉会式の模様が放映されましたが、私がメダルとともに映っていたことはあまり知られていません・・・。

林 選手の裏話・・・

 
 実に充実した大会でした。今思えば、自国開催の国際競技会に出られたことは、大変うれしいことであります。そんな中で、私が体験した裏話を教えます。
 秋田はWG一色、日本代表選手はどこへ行っても人気者でした。私もその一人なんだと感じた出来事があります。それはサインです。
 人生で初めてですかね、あんなに多くのサインをしたのは。公式プログラムから帽子・色紙・幼稚園バッグまで・・・。皆さんの温かい声援を感じましたよ。酔っ払いのおじさんにまで書いたぐらいです。
 やはり人間、なれてくるものでだんだんサインとともに一言いうようになっていきました。
 小学生へのサインを書いたに一言「君もいいライフセーバーになてね」と格好をつけてしまいました。彼は今頃、私のサインをどうしているのでしょうか・・・・・?
 3位入賞を決めたレスキューボードレスキューレースのとき、雨海選手と二人でゴールを目指していました。
 先行する南アフリカ・オーストラリアは先に見えていたのですが、イギリス・スペインなどヨーロッパ勢が落ちていくのが見えました。
 雨海選手が前、私が後ろに乗っていたのですが、私からどう見ても日本チームが3位。隣に勝っているんです。必死に雨海選手に叫びました。
 「このままでいいんだ、いける!3位だぞ・3位だぞ。落ち着け、落ち着いていけ雨海!」
 実は私の方が興奮していたようです。レースはどこで何が起こるかわかりませんね。
 メダル獲得後のインタビューのときです。雨海選手と2人で受けたのですが、
 自ら「“歴史的快挙”の見出しつきで一面にお願いします」と一刀両断、新聞記者を斬っておきました。
 インタビュー内容は細かく、レース内容から二人の作戦まで。一面、もしくは二面にはと思ってしまうくらいの勢いでした。”とうとう紙面を飾るのか〜”と一人、感慨深くなっていました。
 翌日、一面はやはり遊佐選手の金メダル。藤原選手・但野選手の銅メダルでした。
 私達はというと・・・。三面・四面くらいでしょうか、写真もなくコメントだけの結果報告記事でした。
 盛り上がっていたのは自分だけか!?と一人小さな紙面を眺めながら、
 ”新聞記者に言いたいことは言った”と自分を慰めながら、満足感に酔いしれていました。  
新聞の一面とまではいきませんでしたが、心の中にしっかりと刻んだ銅メダルでした。 

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