どうも、キャプテンの林です。
全日本メンバーのコラムはどうでしょうか?各選手の様々な一面がでているのではないかと思います。
今回は私がライフセービングを始めたきっかけについてお話したいと思います。
競泳に没頭し始めたのは小学校3年生のときでした。何気なく始めたスイミングスクールで選手コースへ誘われ、競技の道に進みました。
小学生のときは、全国大会へ出場するなどの結果を残しましたが、中学・高校では伸び悩みました。
全国大会出場はおろか、地区大会にも出場できず。県大会への出場がやっとでした。本当です。
高校時代の親友には「おまえがスポーツでやっていくなんてなぁ。」といわれるほどです。今では一番の理解者であり、たえることのないエールを送ってくれています。ありがとう。
静岡県立静岡商業高等学校を卒業後、拓殖大学へ進学。
ここで初めてライフセービングに出会います。
「夏は海で監視員ができる。」「部活でバイトも斡旋してるんだよ。」等の勧誘文句に、静岡から出てきた私の心は躍らされました。
夏の海・開放感あふれる海岸に、よこしまな思いがよぎります。
「これは、モテる。」そう確信するのに時間はかかりませんでした。また、泳げるなら運動にもいいんじゃないか、そう思い入部を決意しました。
しかしながら、拓殖大学の体育会です。相応の厳しさが待っていました。
終わることのない声だし・ストップがかからない人工呼吸練習・陸上部のようなランニング・・・・・。
当時は常に退部を考えて練習していましたし、夏は国外脱出を考えていたくらいです。ただ、飲み会はむちゃくちゃで面白かったですが・・・・・。
裏工作の失敗や先輩方の励ましをもらい活動を開始しました。
御宿海岸での監視業務はすさまじかったです。
地域の方々と一緒になってチーム組んでいたので、通常のマニュアルは一切通用せず日々状況が変わっていく海にひたすら入水させられました。
「わからないなら入って、流れてみろ。」「波に乗ってみろ」といった具合です。
当時のチームは新人が体感することで危険を知り、実際の救助活動につなげるていくスタイルでした。何度も挑戦しては突き飛ばされ、驚かされ・・・。
1年目には間違ってブイを救助してしまったくらいです。
その際のバックアップは完璧でしたよ。やはり本物でした。“あ”と思ったときには横にいるんです。マリンジェットやらボードやらチューブやら。何度も体験し頭ではなく体で海難救助を覚えました。
当時(約10年前)の御宿海岸は遊泳エリア内にお客さんが入りきらないほどいて、エリア外にもでてしまう状況です。監視員が向かうしかないんです。監視用の車両も3台ほどありました。
見渡す限りの人・人・人。
どれだけ注意をしても、何かが起こるんです。もちろん未然に防ごうという意識はありました。しかし、それを超える状況が次から次へと起こるんですよ。
救助もあれば喧嘩もあり、応急処置もある。海の家のトラブルにまで駆けつけたほどです。御宿海岸で起こることすべてにおいて、頼られていました。
私の大学時代はそんなチームですごしました。
入部当時のよこしまな気持ちは、いつの間にかなくなりました。
チームの一員になりたい、追いつきたいという一心でトレーニング励みました。
いつの間にか、後輩へは坊主を進め自らバリカンを手にするなど、すっかり拓殖大学LSCの暴君になっていましたよ。
1999年 大学4年 インカレ・アイアンマンレース 優勝:2000年世界選手権 日本代表チーム入りを果たします。
このような形で、私はライフセービングを始めました。
人それぞれ理由があると思いますが、始めるのはそこにきっかけがあったから。そのときの気持ちを忘れず、成長していく自分を感じることができたときこの活動をやっていく意味があるのではないかと思います。
今、自分にできることを精一杯やっていきたいと思います。
自分ごとでとりとめなく長くなりました。
アジア大会、全力で頑張ってきます。ご声援、よろしくお願いします。
湯河原LSC/綜合警備保障 所属 林 昌広 |